Без заголовка
03-12-2008 07:37
к комментариям - к полной версии
- понравилось!
「もっともらしさ」と「嘘臭さ」の均衡
松浦寿輝
リュミエール兄弟によるシネマトグラフの発明以来,今年できっかり100年間を数えることになった映画の歴史は,むろん単一のものではなく,いかなる視点に立ってそれを記述するかに応じてそのつど異なった分節化が施され,異なった相貌を見せることになる.映画史の一世紀をいかなるクロノロジーに従って分節化するか.たとえばそうした分節化の一例として,今ここに,「1932年から1968年まで」の36年間を,それ以前からもそれ以降からも区別されたある固有の「時代」として取り出し,それに「スクリーン・プロセスの時代」の名を与えてみたいと思う.第二次世界大戦を間に挟むこの三分の一世紀ほどの期間において,スクリーンへの投射行為の重層化を通じてある特徴的な映像群が作り出され,それが32年以前とも68年以降とも異なる映画的感性を育んだでいたのではないかという仮説を提起したうえで,この仮説に基づく映画史的見取り図の輪郭を粗描してみたいのだ.そこでは,サイレントからトーキーへの転換とか,大衆娯楽の王座を占めていた黄金時代からテレビに追い落とされた凋落期への移行とか,その他考えられうる数多のパラメーターとまったく無関係に,1895年以来の一世紀がほぼ三等分され,1932年までが「スクリーン・プロセス以前」,次いで「スクリーン・プロセスの時代」,そして1968年以降に来るのが「スクリーン・プロセス以後」として記述されることになろう.
「スクリーン・プロセス」は日本の映画人が使い習わした和製英語であるが,英語では正確にはリア・プロジェクションないしバック・プロジェクションと呼ばれるこの技法が,スタジオで演技する俳優の背後に半透明のスクリーンを張り,そこに別の場所で撮影してきた画像を後ろから映写し,その全体を改めて撮影し直すことで,俳優がその場所にいるように見せかける特殊効果の技術であることは言うまでもあるまい.1932年とは映画にこの技法が導入された日付であり,爾来,映画的イメージにおける「本当らしさ」と「嘘臭さ」との微妙な均衡は,この二つの空間の重ね合わせの技法の醸し出すある特有の物質的感触の上に成立していったように思われる.あらかじめ撮影された映像がスクリーン上に投射され,それがスクリーンの反対側から撮影し直され,かくして出来上がった映像がわれわれの眼前でまた再び映画館のスクリーンに投射されることになる.投射の二重化,あるいは,スクリーン中にはめこまれたもう一つのスクリーン.
たとえば「タクシーの場面」.それが,フィルム・ノワールであろうがロマンティック・コメディであろうが,黄金時代のハリウッド映画ではいつでも決まって物語の重要な結節点をなすシーンとなっていることは,映画好きなら誰でもよく知っていることだろう.登場人物がある地点から別の地点までタクシーで移動する途中で,しばしば説話の流れにギア・チェンジが起こり,人々の運命が別の方向に向かって走り出すことになるのだが,1932年以降のハリウッド映画では,自動車で移動する人々を描くのに,スクリーン・プロセスが用いられなかったためしがない.疾走中の自動車の後部座席に座っている男女が表象される場合,左右に並んでこちらを真正面から見つめている二人の間の隙間から,車のリア・ウィンドウを模したスクリーンが見え,後ろへ後ろへどんどん流れてゆく街の風景がそこに映し出されている――そんな画面をわれわれはどれほど眼にしてきたことだろう.二人は,もちろんスタジオに設えられたスプリング付きの模型の上に座っているだけで,水平方向には1メートルたりと移動しているわけでなく,背景の映像の流れが運動感を醸成しているにすぎない.静止している対象がまとう運動のイリュージョン.そこには,嘘っぽさの魅惑とでも言うべきある奇妙な視覚の快楽があり,映画という装置=メディアの本質につながるとも言えるこの快楽によって,自動車のシーンは映画史に豊穣な彩りを添えつづけてきたのである.
自動車の疾走は,ある程度本当らしく表象されねばならない(そうでなければ物語への感情移入は不可能になってしまうだろう)が,同時にまた,その同じ疾走が,非現実的なイメージの世界で起こっている夢のような出来事であることを強調するための虚構性の香りも必要となろう(そうでなければ映画が表象芸術として成立していることの意義は失われてしまうだろう).スクリーン・プロセスの画面とともにわれわれ観客は,「もっともらしさ」のコードと「嘘臭さ」の魅惑との間にある微妙な均衡が保持される時空へと導かれることになる.そこには,リアルな迫真性と演戯的なシミュラクル性の共存という映画的イメージに固有の情動体験が,純化された極限形態で露出していると言ってもよい.映画がイメージの歴史に付け加えた特異そのものの物質的感触といったものが存在するのであり,恐らく,それをほとんど純粋状態で露呈させているものこそがスクリーン・プロセスによる映像なのである.
вверх^
к полной версии
понравилось!
в evernote