О танце буто Хидзиката Тацуми
31-03-2008 00:52
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土方舞踏批評 1
文:友惠しづね
1.「形が後から追い縋る」
「形が後から追い縋る」とは、私達、舞踏カンパニー「友惠しづねと白桃房」が唯一その技術と精神を受け継ぐ舞踏の創始者とされる故・土方巽の言葉である。
土方は舞踏という体表現に契機する舞台作品の創作法を「土方舞踏メソッド」として確立しようとした。メソッドとは表現の「形化」を導くものである。「形化」は表現の意味を内包していなければならない。そして、その意味によって表現ジャンルの定義のキャパシティーが決まってくる。
舞踏はお座なりの定義では括れないとの見識を持つ人がいる。他のジャンルの定義とは相対化されない特化されたものという見方は、それを紐帯として人間の定義にダイナミックに関連づけさせようとする大いなる野心に裏付けされている。だとしたら、アートという一つの抽象的カテゴリーの特権者として安住しようとする行為は傲慢以外の何ものでもない。
溢れる想いはそれを表現する術を求める。そして形を手に入れる。しかし、刹那のカタルシスに満足しないような想いは形から逃れようとする。やっと成就した恋愛相手を物足らないからと捨て去るようなもので、相手は必死に追い縋る。修羅場である。
こんな危うくもスリリングな領域に形を定めようとする舞踏とはいったい何なのだろうか?
舞踏はそのジャンルの定義が曖昧なまま自国と西洋で認知された稀な現代舞台アートである。そのため、舞踏とは何か?という問いが未だになされている。
生前、弟子に「あんなもの舞踏じゃない」と他の舞踏家と云われる人達への批判は、土方の舞踏の「形化」への意志を表していた。
今まで、多くの舞踏論、土方論が上梓されてきているが、それらは土方舞踏の技術には一切触れていないか若しくはその表層だけに終始するものだった。そのために自己を恣意的に投影しただけの私的な文学以上のものはあまり見受けられない。踊りである舞踏の体の技術を無視すれば、その欠落を埋めるために観念が歪曲され肥大化してくるのもやむを得ない。また、「土方の言葉」を組み合わせて自論を展開するものもあるが、これも舞踏技術の構造との関係を知ってこそ、その言葉の真意(説明、詩、キャッチコピー、虚飾、誇示、媚びなど)を掴むことができる筈である。
私は舞踏の魅力を広く知って貰うためにホームページや雑誌に幾つかの拙文を上梓してきたが、今回は「土方舞踏メソッド」のあらましを紹介することにより舞踏というジャンルの定義の核に迫ってみたいと思う。
私達は当団体結成当初、土方舞踏のメソッドの検証を幾多の公演創作と稽古を通し徹底して行った。それにより土方舞踏の構造とその可能性だけではなく限界も知らされた。本稿「土方舞踏批評」は同時に私達の舞踏論に直結するものである。
「土方舞踏メソッド」といってもその資料は膨大である。中には創作過程で捨てられたものも多い。全てを開示するつもりはないし、その必要も感じない。また、初めから高度な技術を提示したところで体表現は感覚的な言語でしか伝わらない要素が含まれてくるため、順を追わなければ読者には必ずしも理解しがたいものと思われる。
そこで、ここでは土方晩年に行われた「土方巽舞踏講習会」でのテキストを中心に彼の舞踏技術を批評的に開示することで舞踏とは何か?を語りたいと思う。
私達の上梓するホームページは、舞踏家、舞踏ファンだけではなく他ジャンルの舞踊家やパフォーマー、役者やそれを志望する方々など広く訪れる。舞踏初体験という方も少なくない。そんな方々にも「土方巽舞踏講習会」なら比較的分かり易く舞踏メソッドを解説できると思う。入門編としては相応しいと考える。それというのも、土方の講習会でのテキストはビギナー向けに整備されたものだからである。しかし、その整備のされ方は些か強引さも感じられることもある。実際の舞台創作に直結するものばかりではないことは予めご了承願いたい。
本稿は二部に分かれる。第一部はメソッド創作時の舞踏を取り巻く状況を生活者の日常的な視点、他ジャンルとの比較、私達の実際の活動を織り交ぜ、できるだけ分かり易く語っていく。これは、読者を翻弄するためとしか思えないような難解なものや観念だけが先行し象牙の塔に耽溺するような巷の舞踏論に陥ることを回避するためである。また、舞踏家の体は日常生活者のそれと甚だしい隔絶を持つものではないと考えることも理由になる。舞踏家の体は生活者個々人のそれを反映することを本領とする。
第二部は具体的な舞踏の技術を紹介していく。私達のホームページには舞踏の振付けに関心を持たれている方が多く来場される。そんな方々のご要望に少しでもお応えできればと思う。初めに申し上げておくが、「土方舞踏メソッド」はあくまで舞踏舞台の創作法である。振付けと演出と踊り手が三位一体でこそ成立するものである。振付けだけをピックアップして解説したところで意味を成さない。しかし、土方は彼の講習会では演出面は一切語っていない。これは講習会の目的があくまで踊り手を養成することに絞られていたからだ。舞踏の場合、踊り手は振付け、演出法を知っていてこそ自身の本来性を発揮できる。これを知らなければ踊り手の表現には早々と限界が生じてしまうことになる。しかし、土方はこれを怠った。そこには彼のある思惑が読み取れる。本格的に舞踏を学ぼうとする方は振付け、演出法も同時に身に付けて欲しい。
体の技術を言葉で解説することは不可能といっていい。本文は第一部である。第二部は写真、図解若しくは映像を用いて別の媒体で紹介することになる。
2.舞踏の周辺
モダン・ダンス出身の土方を中心に’60年代に始まる日本の一つの「前衛舞踊」運動はその後「暗黒舞踊」、「暗黒舞踏」とその名称を変え、’80年代に入ると「Butoh」として西洋の舞台アート界に喧伝されることになる。
名称の変化はその内実の変化を表象するものであると同時に時代の趨勢に即応させる戦略的な行為でもあった。
土方の活動は、初期の頃は「前衛」特有の実験性を前面に押し出すものであった。脱モダン・ダンスの色合いを帯びたものだが足場となる技術は確立されてはいない。当時、週刊誌のグラビア等で今日まで舞踏の一般的なイメージを固定化させるに至る裸と坊主頭、白塗りメイクというエキセントリックな意匠で広く耳目を惹いた。
日本は「終戦」を機に起きたパラダイム変換で占領国であるアメリカ化を浸透させ続けていた頃、音楽は今日の和製ポップスを先駆けるように、当時のアメリカの流行歌を模倣した歌がヒットする。和服、髪結いの需要の減少に伴い、スカート、ジーパン、パーマネントが普及する。
昭和3年秋田県生まれの土方は戦後、モダン・ダンサーとして活躍するのを夢見て東京に出るが、’60年代、その活動は前衛へと向かう。戦前の反動から自由の象徴ともなった女性のヌードの需要が高く、裸を多様した土方の舞台アートは放送コードも厳しく普及率も低いテレビの時代、情報の全国ネットを築く週刊誌の恰好の素材となった。勿論、土方自身が注目されるための話題作りのために率先してこの流れに乗ろうとしたことは否めない。ところが、己に被さる前衛という名称はその出所ジャンルを意味しない。前衛という言葉は常に時代においてのそれであり、己の活動をジャンルとして自立させ得るものではない。また、ここで新たな野心が彼に芽生える。
コネも金もない田舎出身の青年が東京で名を成したのである。彼の野心は叶ったといっていい。稽古場付き女性との婚姻により金蔓を掴みモダン・ダンス業界の日本的序列世界から解放された前衛舞踊での成功。「どうしたら金蔓と離婚しなくて済むか?子供作りゃーいいの」とは舞台で売れないお笑い芸人が言った言葉だ。私には彼の真意の程が分からない。舞踏家と云われる人の中にも何人かこんな人がいる。自分の子供を放ったらかしにする男の身勝手は人類を視座に置く舞踏アートの理念と齟齬を来すように思う。己のアートの地盤の脆弱さを吐露するに等しい。私は土方の煩悩にまでは付き合う術を持たない。てなことを言うと、私は随分と立派な人間とでも写ろうものだが、そんなことはあろう筈もない。土方とはモラルに関する座標軸が少しばかり違うというだけだ。ただ、舞踏は創作の効率性から日常も大事になってくる。表現の次元が高くなってくると表と裏というような二分法的な生き方では速度が間に合わない。それっぽい演技をする余裕はとてもじゃないが無い。
前衛を脱皮し己のアートを新たな舞踊ジャンルとして確立しようとした時期から土方は自身の出身地「東北」をその活動のプレゼンテーションに盛り込むようになる。
’60年代は経済、文化の格差で都市と農村の対立が際立つ時代でもあった。生活に余裕のある子弟による学生運動が流行ると同時に「金の卵」と称される中卒労働者が都会に流れ込んでいた時代である。高卒の土方は出身県である戦前の秋田県の庶民(農家)の生活をモチーフに「東北」として括り(主に演出とプレゼンテーションで。実際の身体所作においては「東北」にこだわってはいない)東京のアート界に対する。これには二つの理由が考えられる。
一つは己を都会に暮らす他の若手の舞踏家達との差異化を図ること。もう一つは当時、哲学思想でモードになっていた文化人類学、構造主義が希求するアニミスティックな核を「東北」としてシンボライズに提唱することで、それを体現しているとする自己を特化させるためである。興味を示したのは身体表現に疎遠な文学者、美術家が多かった。ミュージシャンも来る時期はあったが、彼等は長居はしない。他ジャンルからのインスパイアは希求するが同じ身体表現者である土方との差異は近いからこそ互いのコードの違いが観念ではなく身体感覚として浮き立つ。必要なものを腑分けする感性に無駄はない。
日本で「戦後は終わってない」と言われていた時期、ライブアーティストである舞踏家と文学者、他ジャンル間のオフステージでの交友は互いの創作を触発し合う創造的な関係にあったことは事実だ。しかし、このことが舞踏と身体表現に馴染み切れない言葉とのややもすれば無節操な関係の温床を作り出し、体表現としての舞踏から自立性を失わせ、本来「豊穣でどこまでも魅惑的である筈の体表現」の可能性を閉塞させてしまっている今日の現状には、私も一舞踏家として責任を感じている。
私は何も言葉を駆使する文学者等との付き合いが悪かったといっているのではない。その質が問題なのだ。文学、特に詩の言語はそれが表象する内容の異質性により日常言語とはズレた文法を培った。言葉によってそれを産み出した生を内省しようとする行為は、体を使ってそれが属性となる生を遡行しようとする舞踏と共通する。両者の交流は必然ともいえた。韓国では100万部を超えるような詩集が出版されていると聞くが、今日の日本の現代詩に元気がないのは残念だ。内容に普遍性を有するのであれば万人とのコンタクトが可能な筈だが。表現の難解さ故にジレンマが生じているのだろうか?
’70年の狭い稽古場での仮設舞台での公演を最後に土方の活動は4年間休止され、それに伴い文学者達との交友も疎遠になっていく。しかし、舞踏の自立した批評法も確立せぬまま土方に依存する形で言葉を弄していた輩には居残る者もいた。
それはともかく、舞踏の「形化」が生成、発展する時期での土方の4年間の活動停止は、その後の活動に大きなハンデを産むことになるが、それは後述する。
言葉とは怖い生き物だ。他人を翻弄し誑(たぶら)かしもするし、たった一言に命も宿しもする。人に依る、と云えばそれまでだが、「文学の言葉」と「文学的な言葉」、「詩の言葉」と「詩的な言葉」との決定的な違いを知る人達が去ることで舞踏をその周囲で華やがせた言葉は萎れていく。土方が亡くなるとそれまで彼が押さえてきた箍が緩み、拍車が掛かる。
箍の緩んだ場に居坐ろうとするのは、やはり箍の緩んだ人間なのだろうか。言葉で舞踏家を懐柔出来ると思い込む「舞踏ゴロ」なる輩も出てくる。彼等は単に自慰行為のために舞踏の周辺で自己誇示することが好きなのだろうか。舞踏の核が律動することを恐れているのだろうか。井戸端会議に加わるだけであたかも舞踏の識者を気取る者が多いのは悲しい現状である。彼等の批評の多くは自立する言葉を持たない。「舞踏」と「舞踏的なもの」は違うのと同じように「批評」と「批評的なもの」は違う。こうした輩は舞踏に必要ない。
言葉の真偽を見極めるのは容易い。発言者が如何程リスクを背負っているかを体を通して感じとれば良い。直ぐに分かる筈だ。体は正直。「裸の王様」には成りたくないものだ。
私達は近年、より多くの人達に舞踏の楽しさを知って頂きたいためにボランティア活動として小学校や老人ホーム、知的障害者の方の作業所などでもやらせて頂いている。舞踏を「芸術」というややもすれば前時代の特権的な領域に閉塞させることで自己のアイデンティティーを充足させようという人達の愛玩物にはさせない。
3.舞踏のスタンス
私達は今まで国内外を問わず多くの人に舞踏を講習してきた。海外では公演と講習会がセットで企画される場合も少なくない。新しい体表現に興味を持たれて一度体験してみようという人。既にモダン・ダンスや演劇をされていて舞踏の技術を自分のジャンルに取り入れられないかと模索されている人。当時の時代の思想的モードを表象する舞踏とやらを味わってみようじゃないかという人。東洋の精神性を探求しようとする人(舞踏は「空」かと問われれば、私はそれに限りなく憧憬するが「否」と答える。あるとないとの止揚概念はあってないものになるのは必然。しかし滅びる物質としての体への固執という脆弱さを併せ持つことが舞踏の沽券にもなる。両者の関係の塩梅は美という個性的であるがゆえに不安定な物差しで塩梅する。そこには一番もビリもない)様々である。
人に教えるという作業を通して、逆に教わることは実に多い。
講習生の中には講習後に質問メールを下さる熱心な方もいる。(こっちは体が汲々だよ、勘弁して)と思うことはあるが、私はその都度真摯に対応してきた。自分達の生き方を新たに認識し直すことが出来るし、多様な展望も育まれる契機になる。
わざわざ海外から来られて私達の舞踏講習会を真剣に受講していかれる方もいる。自国に帰って、小さな発表会を開催する。すると、「ある観客から、あなたのは舞踏ではないと言われました。どうしたらいいんでしょうか?」というメールを頂いたこともあった。批評した観客がどれ程舞踏を心得ているのか知らないが、恐らく2、3の舞踏家の公演と写真集からの俄知識で批評家を気取る輩であろう。何処でも舞踏ゴロがいるものだ。
誰しも好き嫌いはあって然るべきだ。しかし、正否の判断を行うには舞踏の定義を批評の根底に据えていなければならない。ところが明確な舞踏の定義を表した批評家には未だお目にかかったことはない。
「舞踏は誰にも括らせない」と公言していた土方に振り回され続けているようだ。舞踏の技術言語は既存(他の舞踊、演劇)の身体言語からは些かズレている。第二部で触れることになるが、知覚の変換(例えば、音を見る)が基本文法となる。それは踊り手を契機にする空間(舞踏空間)が観客と感覚を共有することで成立するコミュニケーション手段である。分析的な観方はこれを拒否する(括らせない)ような質を持つ。浸潤し合おうとするものは対象化できないのだ。
舞踏らしさは演技できるものだ。馴れから生まれる余裕があれば簡単なこと。しかし、余分な思考は表現と表現者の間に距離を産む。だからこそ余裕の処理が難しい。安息する形に焦がれながらもそれを捨てていかざるを得ない。いつも、より高いハードルを必要とするのもそのためである。私達がそれまで舞踏の象徴とされてきた裸や坊主頭、白塗りメイク(白という膨張色を施すと踊り手の存在感が大きく増す。特に海外公演では舞踏に期待する神秘的な幻想を観客に与える効果が得られる)などのエキセントリックな形を捨ててきたのもそんな理由による。虚飾を払拭した表現は冷たいまでに真実を浮き掘る。それには等身大の体の方が都合が良い。
先の講習生に対してだが、(あんなに一生懸命稽古してきたんだから、自分の信条と感性に誇りを持てばいいだけでしょう)と言いたくもなるが、ひた向きな人程傷付き易いし、ましてやビギナー。土俵は踊り手自身の体なのだから、無責任に口先だけで処世する輩に言葉で勝つのは難しいことなのだろう。「私達はあなたが確かな舞踏家だと想っているんです。どうか、自信をお持ちになって下さい」と勇気付ける訳だが、前衛と目されるアーティストの場合、気概も必要である。最近、その講習生からビデオ作家とのコラボレーションDVDが送られてきた。勿論、白塗りメイクはしていない。頑張って欲しいものだ。
しかし、未だに古い観念だけが先行する舞踏のイメージを払拭出来ない自分には腹立たしいし、講習生に対しては申し訳ない気持ちにもなる。
私達の舞踏に「仏」と呼ばれる踊り(仏像から形を模写した土方の振付けは、劇場の違いによる多様な舞台空間などとの関係を考慮に入れないため形が固定化する。私はこれにちょっと見では変わらないが場に即応させるための多様な振付けを加えている。人の体は常に環境と相互作用を持つとの立場からだ)がある。
この「仏」を外国人に振り付けた場合、日本人のそれとは表現される質感が明らかに違ってくる。これは体型の違いだけでなく、体が培われてきたそれぞれの文化、風土の違いを反映しているように思える。というのは、体型が日本人と近い、しかも仏教に馴染みのある他のアジアの国の人のその表現される質感にも大きな違いが現れるからである。
舞踏が、誰もがそれと生きる体を媒介にした万人のためのユニバーサルアートであろうとするなら、多様な文化、風俗、時代を率先して受け入れるべきだと思わされる。矮小な欲のために特権性にしがみつこうとするなら東北、日本に固執した「単なるフォークロア」に成り下がるのである。かといって、安直に西洋のコードに順応しようとする姿勢は日本人の体に歪みを生じさせる。グローバル化という画一化が浸透する中、舞踏は体を通して日本を再考し続けなければならない。
舞踏が西洋で脚光を浴び始めた時、その創始者の土方が海外に招聘されることになる。しかし、土方は’83年のヨーロッパ公演で成功を収めることができなかった。準備不足も一因するが、その理由は技術編に預ける。
私達が始めて海外公演を行ったのは’89年のオランダ・アムステルダムだった。その間、多数の舞踏家が西洋舞台アート界に名乗りを挙げる。
私達は「糸宇夢(しうむ)」という日本的永遠性をテーマにした作品を上演した。これは利賀フェスティバル他、日本各地で絶賛されたものだった。オランダの観客にも好意的に受け入れられ、アムステルダム国立劇場のディレクターからも絶賛され(彼は私達のニューヨーク公演も観に来てくれた)私も安堵したのだが新聞評はどれも申し合わせたように痛烈な悪評。私は唖然とした。海外での舞踏の評価の座標軸は先人者達の活動で既に確立されたようだった。それは日本人から観るととても日本とは思えない「西洋という鏡に写った日本」をスタンスに置いたもののように感じられた。オランダの主催者サイドによる舞踏紹介のパンフレットには舞踏がドイツ表現主義舞踊の傘下に位置付けられた系譜が載っていたりもした。だからといって、私は自分の創作姿勢を変えることは断じてしなかった。
それ以降、私達の海外公演は「ビヨンド舞踏(ニューヨーク・タイムズ紙)」と、新たな評価軸を得ることで賞賛され続けてきた。別に賞賛されることが目的ではないが、海外公演の場合、失敗との評価はその地域で二度とできなくなることが多い。また、一緒{
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